酒屋と私の関係
やがて酒屋は、酒屋万流(さかやばんりゅう)といわれるように、総合商社的な特徴を生かして日本国中に強力な民間ネットワークを築いていた。酒そのものは、主に摂泉十二郷出身の酒屋が自前の蔵で醸造し、下り酒として江戸へ船で輸送し、江戸で売りさばいたが、生産部門である蔵だけでなく、輸送・流通・販売・営業部門についても以下のように進出した。まず輸送部門に関しては、はじめは廻船を差配する廻船問屋という稼業が酒屋とは別個に存在し営業していたが、資本力をつけた酒屋が次々とこれを買収し、酒屋自身が樽廻船問屋として自前の船を所有し、腕のよい船乗りたちを雇い入れ、今でいうフェリー・ターミナルにあたる廻船艀を大坂に出店するようになった。
また江戸には、下り酒を引き受ける下り酒問屋というものがあったが、これもじつはそもそも上方の酒屋が自分のところの酒を江戸市民に売りこむため、手代など重要な人材を派遣し江戸に開店させた「営業所」であった。摂泉十二郷のなかでも熾烈な販売競争があったので、さらにこうした「営業所」は、自分の蔵の酒を良さをお客に熱心に説いて回る、いわば営業活動もまめに行なった。こういう点からしても、ライバルの関東の酒である地廻り酒を扱う店はとてもではないが太刀打ちできなかったのである。黒船来航から幕末にかけては、このような営業マンの持つ情報テリトリーと、押し寄せてきた欧米列強の商社マンとの人脈、廻船や早馬など強力な自家流通ルートを生かして、情報産業にも進出していった。風雲急を告げるこの激動の時代に、長州藩・薩摩藩などの反幕府側も、北国諸藩・箱館政権など旧幕府側も、酒屋に頼った情報入手、物資輸送の例は数知れない。
明治末年に白鶴によって一升瓶が開発されたが、全国津々浦々に浸透するまでに年月がかかったため、昭和初期(地方によっては昭和20年代)まで酒は現在のように瓶で売られるのではなく、町の酒屋においてはまだ酒樽からの量り売りするのが主流であった。酒屋の店頭には、いろいろな酒蔵から買いつけてきた酒が菰(こも)をかぶった樽に入れられて置かれており、客の好みに合わせて、酒屋の主人がそれらをブレンドして売っていた。酒を造っている蔵や杜氏からすれば、自分たちの造った酒を勝手に他の蔵の製品と混ぜられるのは、必ずしも愉快でなかったかもしれないが、どのようなブレンドをするかは酒屋の主人の力量の一つですらあった。たいてい来るのは地元の旧知の客ばかりであり、酒屋の主人は客の好みを熟知していた。すなわち、昭和初期の酒屋は現在のバーテンダー的な技量も必要だったのである。
販売する容量はおおかた2合、5合、1升(=10合)(参照:日本酒の単位)の三種類で、地方によってはごく稀に1合でも売られたという。客はその酒屋からリースされている貧乏徳利を持参して買いにいった。今で言う「マイバッグ」のような「マイ徳利」持参が必須であった。やがて日中戦争が勃発し、日本酒が品薄になると、酒屋のなかには水をまぜて酒をうすめて販売するところもあらわれた。金魚を入れても死なないくらい薄い酒ということで金魚酒と呼ばれた。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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